放浪記

何気ないようで、やっぱり何気ない。そんな日常を綴っていきます。

命賭け

命を賭けなければ、私は死んでしまうんだと思った。

呼吸が止まるわけでもなく、脳が腐っていくわけでもなく、それでも私は死んでしまうのだと気づいた。

人間として、知能や才能を培ったものとして、死んでいくのだろうと知った。

別にこのままでもいいのだろう。何もしたいことをできないままに、ただうっすらとその影を透明に消していくのもありなのだろうと。

人間として死んでいくことに、何のデメリットもないだろう。


このまま楽しくみんなと生きていたって、私はそれなりにいい気分でいられるはずだ。

完全に死んでいくわけでもないし、むしろ今は私の人生の中で充実している方に入る。

家に帰ったら皆んなとのやりとりも楽しいし、いろんなものに取り組んでいけるし、大人になってから仕事だけの忙しい日々を送るよりかは、よっぽどの青春を味わっている。

それでも私は作家になりたい。

文章に魂を捧げたい。

これはおそらく、紛れもない事実で、私の全てを激っていく。

それこそに私の生きている原動力がある。

周りの人たちももちろん大事だ。そして自分自身もまた大切だ。

私は答えを出さなければならない。そして伝えたいことを伝えなければならない。

私の生きていく道の中で、こうも苦しめていくものの正体が分かった気がする。

それは未納の年金のことでも、来週の予定をチャンに伝えるめんどくささよりも、民泊の仕事がなくなったことよりも、もっと私を苦しめていたものがあるのだ。

私の芸術性。世間から見ればクソくだらないような私のチンケな才能が、私の肉体や精神をクヨクヨさせている。

それは根っこのようなものなのかもしれない。

いくら地上に出ている花や茎をきれいに着飾っても、根の部分が腐ってしまっては、とても綺麗なものとは言えない。

逆にどれだけ地上の部分が枯れ果てても、根っこさえ強靭に保てば、いずれはまた花を咲かせてくれるだろう。

それが私にとっての芸術なのかもしれない。

重労働の果て

私は何に悩んでいるだろう。

何に苦しんでいるか。

ただの疲れか、それとももっと内面からくる苦しみなのか。
毎日を猛スピードで駆け抜けるように、ひたすらに稼働して行った。
それからくる私の今のどうしようもない焦燥感はなんなんだろう。

私はいつも、何に悩んで、何に気を遣って、そしてまた疲れて、どうしたのだというのか。

6月からずっと、気の狂うように働き続けてきた。その反面、家に帰ってきてからのみんなとのやりとりが楽しくて、こんな自分、初めてだった。

でもお金の面とか、誰かに伝えられない気持ちとか、世の中で生きていくことの難しさに、少しばかりやられてしまっていて、そんな今だから道も見えないと思う。

藁にも縋る気持ちでこれを書いている。


悩みが多い自分だから、いくら考えないようにしたって溢れ出てくる。それは人間としての愛嬌なのかもしれないけれど、現実問題として少し重荷になるくらい。

それでも、そんな自分だからこそ、楽しんでくれている人がいる。
必要としてくれる人もいる。
大切に思ってくれる人もいる。

そう考えると、この完璧でもない隙だらけの自分も、悪くないんじゃないかと思えてくる。

もっとみんなと楽しんで生きていきたい。

それならば、選ばなければならないし、動かなければならない。

自分を表明しなければならない。

伝えなければならないことは、伝えなければいけない。

それでこそ、新しい道が見えるはずだから。

もう少し頑張ってみる。

久々の投稿

昨日は夜中の3時に帰宅したくせに、今日も仕事があった。

6月にぺーとシェアハウスの皆んなと公園でピクニックに行った日あたりから、多忙に続く多忙で、まともな文章など当たり前のように書けていない。

休みなどろくになかったりする。

それでも私はこうして文章を書くことを諦めきれていなかったりもする。
別に強制されているわけでもないのに、だ。
今ではハウスのみんなとも仲良くなって、気兼ねなく話したりゲームをしたりする仲なのだが、あいにく仕事の方が忙しすぎて、ゆっくりと一緒にいる時間は限られている。

私がこのシェアハウスに来た頃よりも、男子の数は増えて、賑わいも以前より増している気がする。いい傾向だと思う。
その反面、私の目的を忘れてしまいそうになって少し焦っている。

私は文章を書く人ととして、これからも生きていくつもりではあるし、作家として生きていく希望もまだ捨ててはいない。

しかしみんなと居る時間はあまりにも楽しすぎて、時々自分が風来坊のままでも構わないと、環境にたしなめられている気分になってくる。別に誰が言ったわけでもないのに、だ。
私が夢をカミングアウトすればまた変わってくるのか、きっと変わるだろうけれども、それはまだまだできそうにない。
とりあえずおやすみ。

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腹の雷鳴

 

 

 

ゴロゴロゴロ...

 

 

となりつつあるのは、真夜中の星たちを埋め尽くすかみなり雲、、、ではなく、私のお腹です。なんだお前、腹が減っているのかといえば、決してそうではなく、私は昨日からずっと、お腹を下している有り様なのです。

 

腹が痛い、腹が痛いと、個室でひたすらに休養をとり、そして限界がやってくるとトイレに駆け込む。この繰り返しを一日中していたわけでございます。なので日中は共有ルームに一度たりとも顔を見せず、時間感覚も狂ってしまいそうなほどにひたすら寝ていました。

 

シェアハウスに住んでから2ヶ月以上が経ちますが、ここまで誰とも会わずに過ごす日は久しぶりでした。腸内環境のせいか、今日はいつもより誰とも会いたくない感じが強く、より一層内向性が高まった日でもあったようです。そしてなんとも言えない厭世観が私の個室を漂い、孤独に苛まれていたわけです。

 

普段の私には、一人でいる時こそが心の充足を保つ上に必須なのですが、この時ばかりは誰かがそばにいてくれたらと、そう願うような寂しさにたそがれていたわけです。

 

布団の中で、自分ひとりの温もりがやけに冷ややかなものでして、できることならこの私にだって、心を許せる異性の相手が一人くらいいたっていいじゃないかと、嘆きにも似た想いが内心を散々よぎっていく有り様なのでした。

 

腹痛で、仕事も安定しなければ、人間関係にも着地点を見出せないである昨今に、精神を蝕まれたのかもしれません。

 

そのうち心も身体も元気になると信じています。そのためにはもっと眠らないと。

 

ただ今朝の4時...

やべー、寝よう。

4月14日

4月に入って、たくさんたくさん読書をしました。それによって私の頭は以前と比べてかなりガチガチに情報が詰め込まれた、張り詰めた脳みそになり、頭蓋骨の窮屈さ、私自身の価値観の狭苦しさに耐え難いものとなっております。

インプットの弊害がここにきているというわけです。しかし世の中には、国立大学を目指す受験生や、毎日をクリエイティブに稼働している芸術家など、頭を働かせている人は沢山います。彼らは、どうして頭がパンクすることもなくやってのけるのか、不思議ですね。

人間、不思議なことがたくさんあるのです。皆それぞれが同じ性能を持つ肉体と精神を与えられてきたはずなのに、その後の生活によって、人生の歩み方は千差万別の違いを設けています。

私の生き方もまた私にしか生き方であり、そのほかの人たちもそれぞれに違う花が咲いているのです。

それをどうやって、他人にわかってもらうことができるというのでしょうか。共感なんてものは私自身スピリチュアルと同等のレベルとして信じがたく、人が感動するのは何かの思い違いであり、だからこそ人にはその価値がある、素晴らしい生き物なのではないかと思うわけです。

私はアウトプットの練習が必要なのでしょう。今こうして文章を書いていても、どこか脳みその情報出入り口に栓が詰まっているような形でして、何か出し惜しみのようなものしか湧いてこないわけです。はがゆくて、もやもやします。

練習あるのみですね。

カラマーゾフへの挑戦

読書ばかりしていると、私の頭脳へと許容できる範囲を超えた情報量がどんどんどんと、湯水のようにブチ込まれていき、最終的にはもう何も読めない、何もできない、何もかもが意味不明です。

 

 

小説ばかりに目を通し、不意に目を離した後に全く関係のない、区役所からの頼りに目を通すと、不思議なことに同じ日本語でも何が書いてあるのか読めないようになるのです。健康保険証の受け取りに必要なもの一覧をざっと見通しても、一体何を区役所に持って行けばいいのか、混乱に陥ってしまいます。

 

 

それが今の私です。

 

 

カラマーゾフの兄弟を読み進めている今、少し中断してこれを書きます。

 

そうです。
私、カラマーゾフの兄弟を読みながら、前回の記事でも書いた通り、退屈をテーマとした小説なんかを書いている次第です。

どちらもとてもハードルが高くてですね、なんだかうまく立ち回れていない感覚が強いです。カラマーゾフの兄弟は文庫本で5巻(光文社版)まであり、その一冊一冊が500ページはあろうかと言ったほどに分厚い上、頭の中に馴染んでくるまで時間がかかるという、巨匠ドストエフスキーのとんでもない力作かつ遺作であります。

登場人物の名前が長いのはあれこれ言われていますが、それにしても話が長い。

私がこの小説を真に面白いと思い始めたのは、2巻のラスト辺りでした。

やっと面白くなってきたなぁ、とワクワクしたのも束の間、3巻目からは新しい登場人物がチラホラ現れて、

 

(あれ、コイツ誰だっけ?)

 

となる始末です。

それでもいちいち前に戻って読み返すのも難儀なので、このまま読み進めていきます。

どうせ全てを理解するところへは及べないわけですから、半分は投げやりに、半分は直感くらいで、ちょうどいいんだと思います。
今は3巻のちょうど半分くらいです。

頑張ります。

 

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退屈にて

 

退屈が、この世のなりよりの贅沢だ。

 

全てが満たされて、不安や焦燥もない、身体も心も落ち着いているこの瞬間。これ以上に、人は何を求める必要があろう。悩みだらけの面倒臭い生活だらけで、ふとこれらの心配事が消えてしまったらと、切に願うばかり。
願っては虚しくなり、願っては疲れて、そんな毎日だ。
そんな毎日から解放された先が、退屈なのだと思う。退屈はある意味一つの到達点のようで、そして一つの休憩ポイントともいえる。その場所でうつらうつらと心の拠り所を探して、しかしそんな所もどうやら見つからないみたいで、まるでここが居場所ではないような気がしてくる。そうなれば、人は退屈を感じてしまうのだろう。

そんな退屈をテーマにした小説を書いている。これは果たして小説になりうるものなのかも定かではないが、退屈をテーマに何かを書こうとは昔から考えていたもので、しかしいまいち始める気も起こらずじまいだった。そんな自分が不甲斐ないというか、ある意味正直というか。

 

大阪での生活が始まってそろそろ2ヶ月となるが、別にマンネリしたものは特になく、むしろありふれた刺激の数をどうやって受け止めようかと考えてしまうほどだ。だから私自身は別段退屈に揉まれているわけではない。しかし満たされていく心があるのもまた認めざるを得ない。いつかは私も退屈にたどりつくのだろう。そしてそのしのぎ方に工面を働かせなければならない時がきっと来る。これはおそらくの話でしかないのだが。

 

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