放浪記

何気ないようで、やっぱり何気ない。そんな日常を綴っていきます。

独りよがりの居候


今、私は居候の身であり、仕事はしておらず、そして決まっておらず。

Nさんの家で一人、これを書いている。何かそわそわするような気もする。

昼間、昨日応募した介護系の派遣会社から連絡が来て、私が昨日応募した勤務先では働けないが、ほかの老人ホームでなら仕事があると言われた。

私は断った。なんせ排泄介助だの食事介助だの、そういうことをしなくてもいいところだから選んだ勤務先なのに、そこでは働けないというのだ。即、お断りした。

そして昼から散歩に出た。もういてもたってもいられないような気分にもなっていたからだ。私はせっかちで、つい物事の進行が滞ると、へんな汗が体から吹き出してきそうな具合になる。今は、これからの進路が決まりそうで決まらない、そんな曖昧さに苛立ちが顔を覗かせる。

前職の配達の時もそうであった。配達中、やれ渋滞だの、前に進んでいる車が遅いだの、歩行者や自転車に行く手を阻まれているだの、そんな大したことないようなものまでが、まるで私の精神を蝕んでいくようであった。特に私が担当しているエリアは、南北につながる大通りが3つもあったことで、なおさらそういった延滞に悩まされている毎日であった。苛立ちというのは、思った以上に健康に悪い。それは静かに通り過ぎるものもあれば、やかましく身体を騒がせるものあり、しかしいずれも害は変わらない。

だから私は仕事を辞めたんだと思う。仕事にはあらゆるストレスが付き物ではあるけれど、無理なものは無理だったりする。しかしこの世の大半の人たちは、満員電車にも耐えられ、上司からの圧力や、やたら長い労働時間にも屈しない。いやだいやだ、と愚痴を吐きながらも働いている人は多い。そしてそんな人たちを立派だと思う人もまた多い。その意思が次の世代にも受け継がれている気がしないでもない。

今では自分の我慢の弱さも、少しくらい可愛がれるほどの精神的余裕がある。実際に我慢するのが苦手な人はまあまあいるわけだし、そんな人たちに習うわけでもないけれど、完全に自分だけの悩み事ではないわけだ。それを肯定的に見ることにしている。


それで、これからどうする?どうしていきたい?疑問は募りやすく、琵琶湖沿岸を散歩しながら溜まっていく疑問の数々が、私自身の抽象的不安定な歩行に、現状の形として表れているようにも見える。

答えは一つ。わからない、だ。そんなものは知らん。だって知らないのだから。知っていればもう動いているし、その見通しのよさを武器に前持った準備も可能だ。しかしどうだ。今の私は、予測したことに対してすらもロクに準備できないようなやつなのに、わからないことをどうすることもできないだろう。

とりあえず文章を書いておけば、なんだか満たされる気がする。自分が脳内から捻り出した思念の老廃物が、液晶画面の向こう側で論理を司った河川となり、こちら側の私は少しだけスッキリした気分になる。だからもうすでにこうして文体として表したものは、ある意味残骸に近いものだ。そんなスクラップを誰もが鑑賞できるブログに記事としてあげているのだから、まあやっていることは良きものとは言い難い。でもこれをまた非公開として扱うと、それはそれで窮屈なのだ。

私はなにも、独りよがりの極地に行きたいわけではない。独りよがりは、それだけでも楽しいけれど、そのもの自体が人生を大きく占めるものであるならば、そうそう一人のものにしておくだけにする必要性もない。私のこんな文章も、少しずつ人生の中で占める割合を膨らませているみたいだ。

だから公開する。閲覧数が少なくても、現時点では公開することに意味があるといえよう。多分そのうち、どうしたら不特定多数の人々に見てもらえるのかとかと考えるようになるはずだ。それかそれに至るまでに飽きてしまうだ。

一体どっちが先だろう。


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