放浪記

何気ないようで、やっぱり何気ない。そんな日常を綴っていきます。

天気の薄暗い土曜日に、

 

 

わたしは仕事を休みました。

 

 

 

もう20数年ほどの間、

幼稚園児の頃から社会人になった今まで、

そのほとんどの期間が、

家を出て社会に赴くという行動にひざまづくのでした。

 

原因は分かりません。

ついこの間まで楽しかった外での空間が、何かしらのズレが生じてか、休み明けごろから急に楽しめなくなり、自分を出せなくなり、何もかもが苦しくて堪らなくなるのです。

 

楽だと思っていたことがそうでもなくなり、愉快なことも虚しくなる。

 

一体誰がその変貌を決めたのかも定かではないままに、わたしは家を出るのが嫌になる。

 

 

そんな繰り返しを散々してきました。

 

そんなわたしを、両親は哀れそうにこちらを見遣り、ため息とか苛立ちで表していく。

 

私の攻略方に散々気を使い、結局は何も生まれないまま、

私が必死の力で空気を読んで、社会に馴染んだ一人として、無理にでも外に出ていったり、何もなかったこととして後処理していく。

 

 

わたしを問題児として扱うのも納得が行くわけです。

 

 

毎日、食い入るように求人サイトを見ています。

 

まるでそこに人生の答えが載っているかのように。

 

答えなどないのをわかっていながらです。

 

わたしはただ次への逃げ道を考えているだけで、そこにしかすがることのできない無力なのでしょう。

 

 

誰とも会いたくないのです。

 

多分今誰かと会っても、わたしは笑うことができないでしょう。

 

それでも寂しくなるのは、人間としての性といいますか、私がヒトであることの何よりの証明です。

 

 

シェアハウスにいるのも、なんだか申し訳なくなるのです。

 

 

今の私では、皆んなにプラスになるような気を与えることもなりません。

 

 

単純に暗い幽霊のようなやつが漂っている感じで、わたしは存在している、人間のくせにです。

 

 

勉強も進んでいません。

 

先月は哲学の初級に挑んでいたのが遠い過去のようです。

 

今月から読みはじめたフェルマーの最終定理も、まだ半分くらいしか進んでいません。

 

 

いつか読んだ小説に、恐怖とは罪なるものという、たしかモンゴメリの作品だったと思います、そんな表現がありました。

 

 

私の持ち続けている、世間や他人に対しての恐怖は、まさしく重罪にあたるものです。

 

 

布団にくるまって何もかもから閉じこもりたいのに、誰がに会いたくて仕方がなくて、そして誰かに迷惑をかけるのが怖くて仕方がない。

 

 

 

 

ずっとそんな奴です。

ずっとそんなままで、生きていきます。

これからも。

 

 

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命がけのなにか

 

ある日の集まりのこと、Tーさんは言いました。

 

人間、死ぬ気でやればそうそうへこたれることもない。

 

すぐに参ってしまうような甘いやつは、命の危機にさらされたことのないやつだ。


酔っぱらった雰囲気の中で、確かこのようなことを言っていたような気がします。

 

わたしは思いました。

 

これまでの人生で、何か本気で取り組んだ物事があっただろうか。


多分無いと思います。

 

わたしのしていることは、基本的に嫌なことやめんどくさいことから逃げているだけで、その先々ではしゃいだりふざけたり、たまに真面目になったりしているだけなのですから。

 

命どころか、自分の精神すらも、わたしは安住の地で落ち着かせることで精一杯なのです。

 

そんなことを、酒を飲みながら忘れようとしています。

 

何かに溺れてなかったことにしようとしています。

 

はたして、そのままでいいのでしょうか。

 


「そのままでいいんだよ」と言ってくる人が、わたしは嫌いです。

 

なんだかわたしの変化していく可能性を封じ込められたような気がしまいますし、慰めにも労りにもなっていないからです。

 

そのくせ、わたしはそのままであろうとしています。

 

前に進んだときに出会う、少しの壁や崖が怖いのです。

 

そのままでいいんだよ、とかふざけている。


そう思うなら、動くしかない。


一度くらい、死ぬ気で何かに取り組んでみたい。

 

 

そんなことを思うこの頃です。

 

では。

 

 

 

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パーティーの予感と誰かが言った

今日はTーさんの家に遊びに行く日です。
約束していたケンタッキーパーティーをする日ということで、

京都方面に向かうべく御堂筋に揺られています。
前回の集まりではコストコで買い占めた魚介類しゃぶしゃぶパーティーだったのですが、

今回はケンタッキーを食べ尽くすという、

なかなかにジャンキーなテーマとなっております。


わたしはそこまで内臓が強い方ではないので、おそらく早々と胃もたれやら満腹感やらにやられてしまいそうですが、

肉は嫌いではないので楽しみです。
とりあえず神崎川の近くにある、

半月ほど前にやめてしまった清掃会社に給料をもらいに行き、

また梅田に逆戻りです。

靴を買いたい。

もうずっと、前職の繁忙期から同じ靴を履いたままで、

いい加減にこのボロボロの2000円弱の、

ワークマンで買ったこれから解放されたいわけです。

安価なものだったので、

流石に底はほとんどすりきれてしまい、

靴を履くたびに中身のかけらが細かく砕かれた形でこぼれ落ちてくる。
てなわけで茶屋町の外れにある、

小さな靴専門店で一足買いました。

防水の生地らしく、

履いたとき少し窮屈な感じですが、デザインは悪くない。

なんでも、ドイツだかのヨーロッパのメーカーのものらしいです。

元々はサッカー用品をメインに作っていたメーカーらしく、

お洒落な見た目とは裏腹に意外と機能性重視のものだそうです。
しかしまあ、

靴一足お洒落にしたところで、

わたしの全体はそう変わらない、

いつものわたしなのですが、

こうやって改めて新品のものを買うと、

靴一足だけでも随分と気持ちが違ってきます。今度は服上下もまたそれに合わせたもので統一したくなります。
でも上下はまだナンセンスのままで、

Tーさん宅に向かうことにしました。

TーさんもSさんも、

衣食住にはこだわりがある人たちなので、

わたしのチンケな服装が目に障るかもしれません。
まあそれでも構わないのですが。

 

今日はきっと徹夜です。

Tーさん宅に行くと、

毎度の如く朝まで雑談の嵐であります。

おそらく今回もそのような展開になると予想。
楽しみです。

 

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退屈しのぎ

 

読書はわたしの頭の中を文章で貫通していき、脳細胞やら血液やらを乱していく。

そして既存の潮流を完全に殺すことなく、

また新たな流れのリズムを形成して、

その頭が今のわたしの見るものすべてを外界として扱っていく。

同じような日常の中でも、

少しの乱れが発生したおかげで、

いつもの外界と僅かに違ったものに見られたりする。

 

いつもと同じ個室で目覚めて、

相変わらずベランダから聞こえてくる車の音は騒がしい。

まるで昨日と同じループの世界だと認識することは容易いもののはずなのに、

揺るがすことをやめないわたしの「見る目」が、

同じような世界を違う色に際立たせてしまう。

 

なんとなくで生きていくことも容易い。

環境を保持して、

明日への希望も絶望もない、

ほとんど停滞に近いリズムを作り上げる。

そんな人たちで溢れているように見えるのだが、

それもまたわたしの偏見だろうか。


実験的な生活が望ましい。

毎日に少しずつ狂ったような彩りを与えることが、

退屈しのぎのコツなんだと思う。

苦しみに塗れている時、

悩みの生き地獄に辿り着いて抜け出せない時、必要なのは狂気だ。

楽しくて辞められない、

退屈しのぎの狂気なのだ。


だから悪意はある。

悪意を捨てることは難しい。

なかったことにして生きていくのもジリ貧だ。悪意は遊ぶためにある。

そして善意は生きるためにある。

どちらも捨てがたい素敵な意識だと思う。

 

たまには小難しく考え込むのも大切だ。

世の中多忙に塗れている。

しかし、多忙をよろしくないとする見方自体は1世紀頃からすでに言われている。

そろそろ学ぶべきだろう。

わたしたちは暇を作る。

そして悪意を弄ぶ。

そして善意で社会とつながり、

明日につなげていく。

 

退屈しのぎは奥深い。

 

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立ち上がる今

共有ルームでは相変わらず談笑の声がわたしの部屋まで聞こえてくる。

そしてまたまた相変わらず、

ベランダの向こうからは、

車が通る音が容赦なくわたしの耳をつんざく。

もう、この生活にも慣れてきたと思う。

 

ふとしたような微睡の中でこれを描く。

 

昨日まで、

いやついさっきごろまで、

わたしは腑抜けていて、

必要な時間だと割り切りながらずっとげんなりとふてくされていた。

ある種子どもじみていて、

やるせなく時の流れに身を任せていた。

時間は当たり前のように、

わたしの時間をどんどん進めていく。

そしてその進んでいく川の中で、

わたしの意識の中から、

少しずつ砂利が溢れ流れていくように、

焦燥とか、後悔が減っていく。

わたしはそれを見届ける。


そして立ち直る。


フラフラと、

病み上がりのようにわたしは立ち上がり、

もうほんとに精神は安定したのか、

それともまだ、病み上がりのままの、

健康になったつもりの強がりなのか、

確かめるように二足を安定させる。

身体はふらつかない。

 

よし、わたしは立ち直ったようだ。


心のあらゆる面に敏感な奴は、

やはりこんな時も多い。

色んな事象が鉄砲玉のようにわたしを貫く。

ふにゃふにゃの身体はそれから守る術もなく、あっさりとわたしの肉体に食い込んで、

体内の組織を乱していく。

側から見れば、なんのことだかわからない、

わたしのあっけないやられ具合を、

無理やりにも表面化させないように、

冷静な対応を心がける。

時折周りに存在している、

屈強な精神の者たちを思い浮かべて、

まるで自分がその者たちと同じような厚かましさであったかのように、

見様見真似で耐えることを強いる。


それで、

ようやく誰もいないところにたどり着くと、

すべてのスイッチが切れたかのように、

わたしはぐったりと床に寝転がる。

ひんやりとしたフローリングが優しくわたしの身体を冷やす。

熱を帯びた病的なわたしの身体が、

だんだんと冷えていく。

肉体が適切な温度を探し、

外界の床からの温度を吸収し、

適温を保とうとする。

目は閉じて、耳は虚空をすまし、手足はクラゲのように力を抜いて。

 

わたしの過去の事象が、

今のわたしの現在のすべての結論だ。

だから過去は生きている。

死んだ過去など、存在しない。

どんな小さなことでも、

わたしの体のどこかは、

いくら生まれ変わったとて記憶し、

新しい生まれ変わりのわたしに引き継いでいく。

どんなトラウマも、幸福も、絶望も。

 

だからなくすことはできない。

失敗は次の成功に活かすことができるが、

過去の失敗は永遠にわたしの中だ。

それを表面化して、

そして誰かの意識にはいってしまったのならば、

それは受け手の意識の中で時を送るのだ。

だから取り戻せない。

だからいくら過去を悔やんでも、

わたしは加害者の一人なのだ。

 

願うならば、

その受け手たちが、

わたしが投げ渡してしまった過去をどうにか未来に活かしていくしかない。

誰もが例外なく、

過去のものとして片づけられない遺産となっている。

そしてわたしもまた、

誰かからの刺激やメッセージ、

そしてほとんど関わりのない出来事を受け止めて、

それをわたしのどこかが保っている。

だからわたしもある種の被害者である。

 

しかし、被害者面する気持ちも起こらない。

大人になった今、

理性や道徳や概念がある程度形成された今、

虚しいことに自己の保有は自分でしていかなくてはならない。

それが試されている。

人生はいつだって試されて、踊らされて、使い古されていく。

 

騒がしい夜。

この騒がしさに紛れ込んで、

すべてを忘れることだって可能だ。

わたしが過去に引き継いだこの身体のままで、何もかもをリセットしたような気になって、

お祭り騒ぎで未来をワクワクしたように駆け上がっていくのもまた容易い。

なんと素晴らしい未来だろう。

愛なんかも忘れて、

自分の塊を誰が知る由もなく、

強い強い自己をうまく散漫させて、

外面ではわたしの心に気づかない。

そんな形が、今は素敵だと思う。

 

そしてわがままな自分は、

その強い自己を、

絶対に揺るがない塔として、

どんどん積み上げていく。

 

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寝よか...。

 


最近の低迷具合が、ひどくわたしの中の虚しさを広げていく。
あーあーあー、と耳を塞いで現実逃避したいくらいに、羞恥に塗れている。
もうこうなったら眠るしかない。
哲学とか読んでられない。
わがままで子どもなどうしようもない自分が、ひどく憎たらしくなっていく。
今日の自分は、一体なんだったのか。
迷走に迷走を重ねた、迷走に慣れた自分でさえ、今日のやり方は失敗だったんじゃないかと、過去を悔いてしまう。
あーもう、やりきれないね。
何があったのか、かいつまんで説明したいけれど、それもまた、難しい。
しかも明日仕事じゃんか。
仕事とか無理じゃんか。
もう家で寝ていたい。
このまま永眠したい。
えーみんしたい。

 

とか言ってられないのも現状で、もう失敗したのは仕方ないから、立ち直るために羽を休めるのが最良の選択だ。
だから、そういう意味で今日は寝る。

とことん寝てやる。
そして立ち直ってやる。
こんちくしょうだぜ、こんちくしょう。

 

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イン・ザ・サンマルク


テーブルの上のお盆には、

食べ散らかしたクロワッサンの袋とおしぼり、飲み干したコーヒーカップ

あと読みかけの乙一の小説が一冊。

 

室内はぼんやりとした橙の灯りが所々に灯されている。

その光に当てられて読書をしていると、

ふと顔をあげたときに光の具合で焦点がぼやける。

目がしょぼつき、

視力が幾分か悪くなっているような感じがする。

夕方16時の土曜日、

ふとした休日の合間、

買い物中の梅田駅、

私は気が向いたらよく梅田に行く。


 

サンマルクカフェの地下一階でこれを書く。

 

 

室内には、

これでもかというほどに、

テーブルと椅子がある。

土曜日ということもあって、

この空間はテーブルを時間を潰している人たちで賑わう。

勉強や仕事をする若者や、

がやがやと話す女性陣、

パンをむさぼる老人など。
もう少ししたら、

ヨドバシの8階あたりにあるダイソーに買い物に行こうかとも思ったけれど、

いやその前にブログの一つでも書こうかという気になる。

別に大した意味はない。

 

日々を少しだけ振り返る。

 

1月から2月の上旬にかけての日常は、

慌ただしい日々が続いていたように思うが、

ここ最近は落ち着いてきている。

 

1月21日に京都の実家を飛び出し、

そこから大津のNさん宅へ、

そして大津でのニート居候生活も脱却し、

大阪のシェアハウスへとたどり着く。

そして放浪を重ねた現在、

そんな過去の出来事も忘れてしまいそうなほどに、

落ち着いたデスクワークに留まっている。

そういえば私は居候してたんだな、

無職だったんだなと、

他人事のように過去を思う。

毎日高層ビルに通い、

スーツ姿やオフィスカジュアルに混じってエレベーターに乗り、

職場での研修を重ねる日々。

昨日でようやく研修も終わり、

月曜日から本番になる。

わからないことだらけなのは相変わらずだ。

 

とりあえずSさんに26日は休みが取れたことを連絡する。

お昼過ぎにはTーさん宅に向かう予定。

知らぬ間に今月も終わってしまいそうなので、来月からはまた新しい分野の勉強もやろうかと思う。

しかし今月決めた哲学の勉強も、

やっているにはやっているが、

思った以上に習得できたことは少ない気がする。

まばらな具合で、

哲学者の名前とか概念を覚えてはいるくらいだ。

まあいいかと、

私はそろそろカフェを出る準備をする。

 

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